藤原道長と源倫子の間には四人の娘と二人の息子が生まれました。その中でも、次女の藤原妍子(けんし/きよこ)は特に注目される存在です。彼女は正暦5年(994年)に生まれ、華やかな宮廷生活を送りましたが、その背後には数々の波乱が待ち受けていました。
藤原妍子は道長の娘として、幼少期から宮廷生活に慣れ親しんで育ちました。同母兄弟には藤原彰子(道長の長女)や藤原頼通(道長の長男)、藤原教通(五男)、藤原威子(四女)、藤原嬉子(六女)がいます。彼女たちはそれぞれ宮廷に入内し、父・道長の権力拡大に貢献しました。
妍子が17歳となった寛弘7年(1010年)、彼女は居貞親王(後の三条天皇)に入内しました。親王が皇位を継承すると、妍子は中宮となり、宮廷内での影響力を強めました。しかし、三条天皇には既に藤原娍子という愛妻が存在し、彼女は皇后として妍子と対立することになります。娍子は藤原済時の娘で、美貌に優れ、三条天皇から深く愛されていました。
妍子は父・道長の強力な支援を受けて地位を確保しましたが、三条天皇からは「道長の手先」として疎まれることがありました。それでも、長和2年(1013年)には皇女の禎子内親王を出産しましたが、子供は彼女一人だけでした。このことが、道長の失望を招く原因となったことでしょう。
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