藤原威子は、長保元年(1000年)12月23日に誕生しました。藤原道長の三女として生まれた威子は、幼少期から父の権力の道具としての運命を背負っていました。
13歳となった長和元年(1012年)に裳着(もぎ)を行って成人し、尚侍(ないしのかみ)に任官します。同年のうちに正四位下、従三位へと昇進し、長和2年(1013年)には従二位へ昇り、寛仁元年(1017年)には御匣殿別当(みくしげどのべっとう)を兼任します。
御匣殿とは天皇陛下のお召し物(御衣装箱)担当で、別当はその長官です。天皇陛下のお召し物をお世話するということは、脱ぐこともある訳で、この職は半ば愛人枠(妻候補)という意味もありました。
そして翌寛仁2年(1018年)3月、威子は甥の後一条天皇(一条天皇と姉・彰子の皇子)へ入内します。威子は後一条天皇より9歳年長で、彼女はこの年齢差を恥じらったと言いますが、父・道長の意向とあれば仕方ありません。
4月に女御(にょうご)となり、10月には正室である中宮(ちゅうぐう。皇后陛下)に立てられました。これによって、道長は三后(皇后・皇太后・太皇太后)をすべて自分の娘で占める前人未到の偉業を達成したのです。
道長の三后政策は見事に成功し、彼の権力は絶頂に達しました。
皇后……三女・威子(後一条天皇)皇太后……次女・姸子(三条天皇)太皇太后……長女・彰子(一条天皇)
もはや道長には、一族でさえ誰も敵いません。権力の絶頂に昇りつめた道長は、この年の月見であの歌を詠んだのでした。
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