渋沢栄一、この名前を聞いてピンとくる人はどれほどいるだろうか?2024年から新1万円札の顔となるこの偉人、実はとんでもない偉業の数々を成し遂げた人物なのだ。今日はその知られざる数奇な人生をひも解いていこう。
栄一が生まれたのは埼玉県深谷市。深谷といえば、あの太くて甘い深谷ネギで知られる地だが、彼はそこで農家の家に生まれた。江戸末期の話だ。農家といっても、渋沢家はただの農家ではなく、藍染めを生業にしていた。藍染めといえば、あの美しい青色を生み出す染料であり、当時は高価な商品だった。
栄一は幼少期から武道に励み、学問にも熱心だった。しかし、彼が他の子供と違ったのは、商才を発揮し始めたことだ。13歳で藍の買付けを任された栄一は、父譲りの藍の目利きを見事に発揮し、初めての取引で商人たちを驚かせた。13歳の少年が大人たちに値下げ交渉を持ちかけ、優れた藍を安く買い集める姿は、商人たちの度肝を抜いたという。
しかし、栄一の才能は商売だけでは収まらなかった。彼は次第に政治に興味を持ち始める。農家の子供だったために受けた差別や、当時の社会制度への不満が彼を突き動かしたのだ。「なぜ、農民の子供はどれだけ努力しても差別されるのか?」。そんな疑問を胸に、彼は江戸に出て勤皇志士たちと交流を始める。
当時、日本は黒船来航の衝撃で混乱していた。外国からの圧力に対抗するため、「尊皇攘夷」という天皇を中心に日本を守ろうという思想が広まっていた。栄一もこの思想に影響され、次第に幕府に反感を抱くようになる。
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