豊臣秀吉、かつて一介の農民から織田信長に取り立てられ、最終的には天下を取るまでに至った偉人として広く知られています。しかし、その出世の裏には常に彼の正室、ねね(寧々)の存在がありました。今回は、ねねがいかにして秀吉の出世を助け、その波瀾万丈の生涯を送ったかを、いくつかのエピソードと共にご紹介します。
ねねは、尾張国の杉原定義と朝日殿の次女として生まれ、織田軍の足軽頭である麻の長勝の養女として育ちました。14歳の時、まだ木下藤吉郎と名乗っていた秀吉に見初められ、アプローチを受けました。2人の出会いには、信長の後押しもあったとされています。信長一行が高がりに出た際、麻の長勝の屋敷に立ち寄り、そこでねねの美しい所作に心を奪われた信長が、秀吉にねねを勧めたのです。
1561年、桶狭間の戦いの頃、ねねは秀吉との結婚を決意しました。しかし、元は農民の身分であった秀吉との結婚には、ねねの親族から大反対がありました。特に実母の朝日殿は強く反対し、生涯にわたって秀吉を娘婿として認めることはありませんでした。それでも、ねねは質素な祝言を文句一つ言わずに受け入れ、秀吉との生活を喜びました。
秀吉が出世する背後には、ねねの大きな力がありました。信長が特に秀吉に関心を持つようになったのも、ねねの働きあってこそです。毎年の暮れに、各地の武将が信長に贈る特産品や金銀の品々に飽きていた信長に対し、ねねは200枚強の小袖を贈りました。その小袖は全てデザインや型が異なり、信長はその真心に感動しました。この贈り物がきっかけで、秀吉は侍大将に異例の速さで取り立てられたのです。
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