かつて「よど号ハイジャック事件」で英雄と称えられた元衆議院議員の山村新治郎。その名は、1970年の事件当時、世界中に轟きました。しかし、彼の人生の最後は予想もしなかった悲劇に見舞われることとなります。今回は、事件の詳細から、山村新治郎の波乱に満ちた人生、そして彼を襲った衝撃的な最期について詳しくお伝えします。
英雄となった「よど号ハイジャック事件」
1970年3月31日、日本初のハイジャック事件が発生しました。犯人は新左翼過激派「赤軍派」のメンバー9人。日航機「よど号」をハイジャックし、乗客129名を人質に取り、「北朝鮮への亡命」を要求しました。
この時、運輸政務次官だった山村新治郎は、自らが人質の身代わりとなることを提案。死を覚悟した山村は妻に電話をかけ、娘たちのことを託し、全財産の場所まで伝えたと言います。そして彼は、北朝鮮に向かうよど号に乗り込みました。
北朝鮮に到着後、山村らは思想教育を受け、3日後に無事帰国しました。乗客や乗員の命を守るために自らを差し出した山村の行動は「英雄的」と称され、多くの賞賛を浴びました。この事件で犠牲者は出ず、無事解決となりました。
家庭内の悲劇
事件後も山村は順調な政治家生活を送っていました。自民党の重要ポストを歴任し、運輸大臣や農林水産大臣を務めました。しかし、その栄光の裏で家庭内には徐々に不穏な影が忍び寄っていました。
山村には3人の娘がいましたが、特に次女である桐さんを溺愛していたと言われています。
1992年4月11日深夜、その悲劇は突如として起きます。24歳だった桐さんは、就寝中の父・山村を包丁で何度も刺し殺害しました。母親が悲鳴を聞いて駆けつけた時には、桐さんがまだ手に包丁を握っていたと言います。
悲劇の結末と謎
逮捕後、桐さんは父を殺害したことを認めましたが、動機については一切語りませんでした。その後、精神科への通院歴が考慮され、責任能力なしと判断され不起訴となりました。しかし、彼女自身も1996年4月9日、28歳という若さで高層マンションから飛び降り自殺してしまいます。
父娘間で何が起きたのか、なぜ桐さんが父を憎むに至ったのか。これらの謎は明らかにされていません。山村新治郎の壮絶な最期は、国民的英雄だった彼の影の部分を浮き彫りにするものとなりました。
「英雄」の裏に潜む現代の教訓
「よど号ハイジャック事件」で一躍国民的英雄となった山村新治郎。しかし、その輝かしい経歴の裏には、誰にも言えない苦悩や家族間の摩擦があったのかもしれません。
この事件を通じて、「英雄」としての姿と、人間としての弱さが共存する山村新治郎の人生に改めて向き合うべきではないでしょうか。
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=l3L2nhN5z_A,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]