江戸時代、庶民たちは自宅にお風呂を持つことができず、主に「湯屋」と呼ばれる銭湯に通っていました。当時の江戸の町は夏は蒸し暑く、冬は風が強く、土埃が舞う環境でした。このため、毎日お風呂に入ることが常識であり、湯屋は庶民の生活に欠かせない存在でした。
湯屋の利用料金は大人が8文、子供は4文と手頃な価格でした。当時の1文は約30円に相当するため、大人の料金は約240円、子供は約120円です。さらに、定額で何度も通える「ハガキ」という入浴定期券もあり、庶民でも気軽に通うことができました。
湯屋の存在は江戸の町にとって非常に重要であり、各街に1〜2軒、多いところでは600軒以上も存在しました。庶民はもちろんのこと、商人や下級武士、旅行客など、身分を問わず多くの人々が湯屋を利用していました。
江戸時代の湯屋では、蒸し風呂が主流でしたが、中期以降は浴槽に湯を溜めて入浴するスタイルが一般的になりました。湯屋の営業時間は明け方から夜遅くまでで、風が強い日は火事の恐れがあるため休業となることもありました。
湯屋の内部は「番台」、「脱衣所」、「長し場」、「浴槽」といったエリアに分かれており、入り口付近にある番台では入浴料を支払い、その先の脱衣所で着替えを行います。長し場では体を洗い、最後に浴槽で温まるのが一般的な流れでした。
江戸時代中期までは、湯屋は男女混浴が基本でしたが、寛政の改革で混浴が禁止されました。それでも、幕末まで男女混浴は続いていたようです。
湯屋の構造は独特で、特に「ザクロ口」と呼ばれる狭い入り口があり、ここをくぐって浴槽に入る必要がありました。
また、湯屋の壁には「曳舟」と呼ばれるチラシやポスターが貼られており、地域の商店や工業主が商品の宣伝を行っていました。湯屋は体を洗うだけでなく、地域の情報交換の場としても機能していたのです。
当時の浴槽の湯は濁っていて清潔とは言えませんでした。そのため、入浴後に長し場で体を洗うのが一般的でした。体を洗うための「ぬか袋」は米やもち米を袋に入れたもので、これを使って体を洗いました。これに加えて、湯屋では手拭いや桶、洗い子などのレンタルサービスも充実しており、快適に利用できるよう工夫が施されていました。
湯屋の2階は男性専用の休憩所となっており、入浴後の男性たちの社交場として利用されていました。ここでは、お菓子やお茶を楽しみながら囲碁や将棋を指し、情報交換や交流の場として活用されていました。このように、湯屋は単なる入浴施設ではなく、男性たちの社交の場としての機能も果たしていたのです。