藤原道長といえば、「この世をば我が世ぞ思ふ望月の欠けたることもなし」という和歌が有名で、平安時代の権力者として名を馳せています。しかし、その生涯は意外な紆余曲折があり、また、和歌にも深い裏話が隠されているのです。
藤原道長は、名門・藤原北家の生まれですが、彼は最初から順風満帆な人生を歩んだわけではありません。道長の父・藤原兼家は、娘を天皇の后として送り込み、外祖父として権力を握りましたが、道長は五男として生まれ、当初は権力を得る立場にはありませんでした。
道長本人も、父の跡を継ぐのは兄たちだと思っていたことでしょう。ところが、兄・道隆が995年に急死し、その後を継いだ弟の道兼もわずか10日後に病没するという不運が続きます。この状況が一変し、道長が権力の座へと押し上げられることとなったのです。
道長が大きな影響力を持つに至った背景には、彼がただの権力欲だけで動いていたわけではなく、一条天皇の母である藤原詮子の強い推薦がありました。詮子は道長を信頼し、これが道長の関白就任の大きな後押しとなったのです。
その後、道長は権力の中心に立つようになり、実質的に政界を牛耳る存在となりました。彼は関白には就任しなかったものの、左大臣や内覧という要職に就き、事実上の最高権力者として君臨しました。
道長の有名な和歌「この世をば我が世ぞ思ふ望月の欠けたることもなし」は、権力の頂点に立った彼の自信を象徴するものとして広く知られています。しかし、この和歌には意外な裏話が存在します。
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