平安時代の貴族社会で、敦康親王はその誕生とともに、期待と悲劇が交錯する運命を歩み始めました。彼は一条天皇の第一王子として本来ならば次の天皇となるべき存在でしたが、実際にはその運命は大きく揺さぶられ、彼の生涯はわずか20年で幕を閉じることとなりました。
敦康親王は、999年11月7日、一条天皇と藤原 定子(ふじわらのさだこ)との間に誕生しました。藤原定子は一条天皇が最も愛した妃であり、敦康親王の誕生は天皇にとって待望の男子の誕生でした。しかし、この喜びの瞬間に、敦康親王の不運な運命が始まってしまったのです。
その日は偶然にも、藤原道長の長女であり、後に中宮となる彰子(しょうし)が一条天皇の妃として正式に迎えられる日でもありました。天皇にとっては歓喜の日であったはずですが、道長は自らの娘である彰子の入内と敦康親王の誕生を同日に重ねることで、定子の出産を目立たなくしようと画策しました。
さらに不幸なことに、敦康親王の母・定子は彼の誕生からわずか1年後、1000年に第三子の媞子内親王(ていしないしんのう)を出産した際に亡くなってしまいました。まだ幼い敦康親王は、母の温もりを感じることもなく、その後は定子の妹である藤原道長の次女・明子(みょうし)に引き取られ、育てられることになります。
道長はまだ王子を持っていない娘・彰子の元に敦康親王を預けることで、一条天皇の第一王子を保護し、彼の後ろ盾となるつもりでした。しかし、この時点で敦康親王は、彰子にとってまるで本当の子供のように育てられたものの、道長が望んだように次期天皇としての道が約束されたわけではありませんでした。
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