昭和の時代、日本の織物工場は多くの家庭の生計を支える重要な場所でした。特に、私の父が勤める織物工場は、親戚が経営しており、家から歩いて行けるほど近くにありました。この工場での仕事の様子は、私のアルバムに細かく記録されていますが、「かせくり」や「ブッチャー」といった専門用語が多く、織物についてあまり知らない私には理解が難しいこともあります。
工場の風景と作業
織物工場の特徴的なノコギリ屋根は、建物の北側に採光窓を備えており、一年中安定した光を取り入れることができます。写真で見ても分かるように、工場の中は意外と明るく、働く人々の姿がはっきりと見えます。
父の仕事
父は、工場で「かせくり」という作業を担当していました。この作業は、糸をかせにして巻き取る工程であり、手間と技術が必要です。父は毎日、重い糸の束を扱いながら、正確に作業をこなしていました。その姿は、黙々と仕事に打ち込む真剣な表情とともに、私の記憶に強く残っています。
母の仕事
一方、母は子育てをしながらも、工場で働いていました。母の仕事は「ブッチャー」というもので、布地を正確に切り分ける工程を担当していました。母はフルタイムで働くことはなく、いつでも家に帰れるように融通を利かせてもらっていたため、家事と仕事を両立させていました。
家族の絆と支え合い
工場で働く父と母の姿は、私たち家族の絆を強く感じさせるものでした。父が遅くまで働いて家計を支え、母が家庭を守りながらも働く姿は、私にとって大きな励みとなりました。
父の姿
父はいつも、仕事の後に疲れた体を引きずって帰宅しました。しかし、家に帰ると疲れた表情を見せることなく、私たち子供たちと一緒に遊び、家族との時間を大切にしてくれました。
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引用元:https://www.instagram.com/p/C9uLzICy2d-/?fbclid=IwZXh0bgNhZW0CMTAAAR0G3d4oP5QrHxuujF9wNb5osVM9yr-nNexHlmCRcpPKLLHhQH9LrKWDOtI_aem_Rn0a7cuDkOgG-0KlIrr8Kg,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]