江戸時代の日本には、幕府公認の遊郭が数多く存在しました。中でも、吉原は最も有名な場所であり、多くの遊女たちが日々働いていました。彼女たちは多くの場合、親や夫の借金のために売られ、その借金を返すまでの年季を終えるまで仕事に励むことを強いられていました。その中で特に美貌と教養を兼ね備えた遊女は「花魁(おいらん)」と呼ばれ、吉原の頂点に立つ存在として知られていました。
今回は、そんな花魁たちの中でも特に有名な「仙台高尾」、「榊原高尾」、そして「吉野太夫」についてご紹介し、最後に悲劇の遊女「若紫」の物語を取り上げます。
まず最初に紹介するのは、悲劇の花魁として名高い「仙台高尾」です。二代目高尾太夫として知られる彼女は、美貌のみならず教養の高さでも評判であり、多くの客から熱い支持を受けていました。 しかし、彼女には将来を誓い合った恋人がいました。恋人は鳥取藩の藩士でしたが、彼が高尾を見受けするために必要な金額である400両を支払うことは到底できませんでした。
そこに現れたのが仙台藩主の伊達綱宗でした。彼は高尾に恋焦がれ、なんとしても彼女を手に入れようとしました。高尾はその提案を断るため、自分の身請けに関する条件として、装飾品を身にまとった自分の体重と同じ重さの金額を提示しました。その金額はなんと3000両、現代の価値で約5億円にも相当する大金です。しかし、伊達綱宗はその条件を飲み、身請け金を支払いました。
しかし、高尾は伊達綱宗に心を許さず、彼と一緒に過ごすことを拒み続けました。これに怒った綱宗は、彼女を逆さ吊りにして殺害してしまいました。仙台高尾の最期は、吉原で語り継がれる悲劇として後世に残されています。
次に紹介するのは、花魁でありながらも藩主の側室となった「榊原高尾」
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください