徳川慶喜、最後の将軍として歴史に名を残した彼には、実に21人もの子どもがいました。彼の子どもたちの人生は、それぞれが異なる道を歩み、波乱万丈なエピソードに満ちています。
徳川慶喜は、江戸幕府が終焉を迎えた後、明治時代に入ると静岡で隠居生活を始めます。そこで彼は、写真撮影や狩猟など、多趣味な生活を送りましたが、一方で多くの子どもを授かりました。慶喜には二人の側室がおり、彼らとの間に10男11女をもうけました。今回は、その中でも特に注目される子どもたちの人生を追っていきます。
まず紹介するのは、徳川慶喜公爵家を継いだ徳川義久です。義久は、慶喜と側室・新村信の間に生まれた長男で、将来を嘱望された逸材でした。彼は学問に秀で、スポーツでも優れた才能を発揮し、柔道やゴルフでも一流の成績を残しています。特にその端正な容姿から、家族内では「映画俳優でもおかしくない」と評されるほどの美男子でした。
義久は、アニスガー威仁親王の次女である美恵子と結婚し、美男美女の夫婦として評判を集めました。しかし、義久はわずか37歳という若さで急死してしまいます。死因は、睡眠薬の過剰摂取によるものでしたが、自殺説も囁かれました。彼の死後、息子の義満が家督を継ぎますが、その後、家は没落の一途をたどります。
次に紹介するのは、勝海舟の養子となった徳川詳之助です。詳之助は、慶喜の六男として生まれ、幼くして勝海舟の家に養子に入りました。
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください