徳川将軍の家臣として幕府の中枢を担う存在だった江戸時代の旗本。旗本は将軍にお目見えする資格を持つ身分で、軍事や行政において重要な役職についていました。例えば所員番組や故障番組として江戸城の警備を務めたり、感情業や町業では幕府の財政や司法も管轄しています。また、上級武士が多かった旗本には火力に応じて家臣を雇う義務もありました。旗本屋敷では旗本の家族と共に家臣団も暮らしていて、一種の共同体が形成されていました。
徳川将軍と主従関係を結んだ直臣のうち、石高が1万石未満だったのが旗本と御家人です。旗本と御家人の違いは、家として将軍家へのお目見えを許されるかどうかという点です。将軍にお目見えする資格を持つのが旗本で、将軍にお目見えする資格がないのが御家人になります。江戸時代の後期における人数は、旗本が約5200人で、御家人は1万5000人から1万8000人でした。
旗本は庶民からどう呼ばれていたかというと、旗本の当主が「殿様」で夫人は「奥様」、家臣は当主が「旦那様」で夫人は「ご新所様」になります。旗本は徳川将軍から禄を与えられていましたが、石高は家によって様々でした。
こちらは寛政年間(1789年から1801年)における禄別の旗本の人数をまとめた表です。旗本の中で最も多いのが石高200石台で、100石から499石までの旗本が全体の約60%を占めていました。8000石以上の上級旗本が占める割合は約16%で、8000石を超える旗本も6人いました。一方、100石以下の下層旗本が占める割合は約7%と少数派です。
旗本には幕府から禄を与えられることに対する報酬として、軍役の義務がありました。軍役とは幕府に対して負うべき軍事上の負担のことです。具体的には、家臣を率いて出兵したり、幕府の上客や台場などを警備することです。
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