福沢諭吉は、日本近代化の父とも呼ばれる偉大な思想家であり、その代表作『学問のすすめ』で知られています。しかし、彼が1885年に発表した「脱亜論」や、1897年に自治新報で記した最後の社説「事実を見るべし」は、彼が朝鮮半島や中国に対して抱いていた深い洞察を示しています。
福沢諭吉は「脱亜論」において、アジアの後進性を批判し、日本が西洋文明を受け入れることで世界に伍していくべきだと主張しました。この考えは、彼が見た清国と李氏朝鮮の現状に対する強い失望感に基づいています。彼は、両国が近代化を拒否し、古い価値観に固執している様子を痛烈に批判しました。
彼の最終結論ともいえる社説「事実を見るべし」では、福沢は李氏朝鮮に対する完全な不信感を表明しました。彼は、李氏朝鮮が何度も国際約束を無視し、信頼できる存在ではないと断じたのです。彼が述べた「約束は無効と覚悟し、実利を得るほかに方法はない」という言葉には、福沢の失望と同時に、現実的な対処法を模索する彼の姿勢が垣間見えます。
福沢が李氏朝鮮に対して強い不信感を抱くに至った大きな要因の一つが、1884年に発生した甲申事変です。この事件は、朝鮮の改革派である独立党が、清国の支配からの脱却と国内の近代化を目指してクーデターを起こしたものです。しかし、このクーデターは失敗し、多くの改革派が粛清されました。
福沢は、甲申事変を支援していた金玉均や朴泳孝らの独立党の若者たちが粛清されるのを目の当たりにし、彼らの努力が無に帰す様子を目撃しました。この出来事が、福沢の心に深い影を落とし、彼が最終的に「脱亜論」を発表する動機となったのです。
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