歴史を振り返ると、戦争における多くの話は男性の英雄譚が中心になります。しかし、戦火の中で女性たちがどのように過ごし、どんな運命を辿ったのか、語られることは少ないものです。特に、幕末の戊辰戦争において、会津戦争は最も激しい戦いの一つとして知られていますが、この戦争で多くの女性、子供、そして老人たちが犠牲となりました。彼女たちは、足手まといになることを恐れ、家族と共に自ら命を絶つ道を選んだのです。
1867年11月、大政奉還が行われ、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権を返上しました。しかし、依然として幕府は強大な権力を保持しており、簡単にはその支配が終わることはありませんでした。一方で、薩摩藩や長州藩などの倒幕派は、天皇を中心とした新政府を樹立しようと動き出します。
戊辰戦争の初戦である鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は惨敗を喫し、徳川慶喜は江戸に逃れます。そして、その後の戦いは全国へと拡大し、ついに会津藩へと火の手が及びました。会津藩主松平容保は、新政府に忠誠を示しましたが、それにもかかわらず新政府軍は会津藩を討つべく動き出したのです。
会津戦争が激化する中、会津若松城は包囲され、激しい攻撃を受けます。籠城戦が続く中で、会津藩の女性たちは壮絶な決断を迫られました。
特に有名なのは、会津藩家老・西郷頼母の一族の集団自決です。西郷家の女性たちは、官軍に捕らえられる前に自ら命を絶つことを決意し、義母や義妹と共に娘たちを手にかけました。彼女たちは、会津藩の名誉を守るために、そして家族を守るために、涙を流しながら最期の時を迎えたのです。
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