平安時代の女流作家、紫式部。その名前は彼女の代表作『源氏物語』を通じて広く知られていますが、実は「紫式部」という名前は本名ではなく、女房名(ビジネスネーム)であることをご存じでしょうか。この名前には深い意味と謎が隠されています。
紫式部という名前は、『源氏物語』のメインヒロインである紫の上(むらさきのうえ)から取られたと言われています。また、「式部」は父親の藤原為時が務めた官職、式部丞(しきぶのじょう)から取られています。このように、彼女の名前は父親の官職と自らの作品から派生しているのです。
しかし、ここで一つの疑問が生じます。なぜ紫式部は父親の古い官職である式部丞から名前を取ったのでしょうか?
紫式部が一条天皇の中宮である藤原彰子に仕え始めたのは、寛弘2年(1006年)12月のことです。この時点で、父親の藤原為時は式部丞ではなく、越前守(えちぜんのかみ)という国司長官の役職に就いていました。したがって、父親の現職から女房名を付けるのであれば、「藤越前(とうのえちぜん)」などと呼ばれるのが妥当です。
また、亡き夫・藤原宣孝の官職である右衛門権佐や山城守から名前を取るなら、「藤山城(とうのやましろ)」あるいは「藤右衛門(とうのえもん)」となりそうです。では、なぜ彼女は「紫式部」と呼ばれることになったのでしょうか?
この疑問に対する一つの仮説は、紫式部が寛弘2年以前から既に出仕していた可能性です。19年前の永延元年(987年)、藤原道長と源倫子が結婚する際に、紫式部は倫子付きの女房として出仕していたという説があります。この時期であれば、父・為時は式部丞であり、「藤式部」と呼ばれるのに違和感はありません。
実際、『今鏡』などの文献には紫式部が源倫子に仕えていたことが記されており、この説を裏付けています。また、『紫式部日記』の記述からも、彰子に仕えていた時点で彼女には既に豊富なキャリアがあったことが窺えます。
もしこの仮説が正しければ、紫式部は一度出仕してから数年のブランクを経て、再び現場に復帰した可能性があります。そのため、昔の女房名である「藤式部」をそのまま使い続け、「紫式部」として知られるようになったのかもしれません。
紫式部の女房名にまつわる謎について考察しました。
果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」では、この説が採用されるのでしょうか。道長と倫子の結婚を女房として見届ける紫式部の姿が描かれるかもしれませんね。
紫式部という名前に秘められた謎と彼女の波乱万丈な人生。その真相に迫るドラマの展開が楽しみです。今後の究明と物語の進展に期待しましょう。