1911年12月26日、東京都文京区小石川にて誕生された高松宮喜久子様。その名門たる血筋は、徳川家最後の将軍・徳川慶喜の七男である義久と、有栖川宮家の第二王女を母に持つという、日本が誇る両家に生まれたことから明らかです。しかし、高松宮喜久子様の運命はわずか2歳という幼さで大きく動き出しました。彼女はこの時、すでに大正天皇の第三王子・信仁新王との婚約が決定していたのです。幼いながらも皇族としての宿命を背負う彼女の物語は、まさに波乱万丈でした。
高松宮喜久子様の2歳での婚約は、家系の存続という重大な理由によって決定されました。有栖川宮家の当主であった祖父・有栖川宮威仁新王が危篤に陥り、後継者がいないまま家が断絶の危機に直面していたためです。
わずか2歳の高松宮喜久子様にとって、祖父との別れは早すぎるものでした。祖父に深く愛された彼女は、その死をまだ理解できぬ幼い心で、再び会いたいと願い続けたといいます。千羽鶴を折り続ける彼女の姿は、悲しみの中にも美しさを感じさせるものであり、家族への深い愛情を象徴していました。
高松宮喜久子様は18歳となった1930年、信仁新王と結婚します。この結婚は、徳川家と有栖川宮家という歴史的に重要な家同士の結びつきであり、大いに話題を集めました。さらに結婚からわずか数ヶ月後、夫妻は昭和天皇の名代として14ヶ月にわたり欧米26カ国を訪問しました。この長期にわたる外遊は、当時としては異例であり、世界的な公務を通じて二人の絆を深めました。
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