江戸時代の庶民たちがどのようなお菓子を食べていたのか、皆さんは知っていますか?京都では雅やかな名前を持つ上菓子が作られ、大名や上層階級の人々にもてはやされていました。一方、江戸では京都からもたらされた上菓子の技術を元に、庶民の感性に合った和菓子が数多く登場するようになりました。現代の和菓子のほとんどが江戸時代に確立されたと言われていますが、庶民はどんな和菓子を食べていたのでしょうか。今回は、江戸時代のお菓子事情について詳しくご紹介します。
江戸時代の初期、甘味として庶民に親しまれていたのは「水菓子」でした。水菓子とは、現代でいう果物のことです。元々「菓子」という言葉は果物を含めた甘味全般を指していましたが、東菓子や蒸し菓子などが作られるようになると、人の手で作られたお菓子と区別するため、果物は「水菓子」と呼ばれるようになりました。
夏には、水菓子を売る露天商が出現しました。特に人気だったのは「瓜」と「西瓜」です。西瓜は当初、身が赤くて血を連想させるという理由で敬遠されていましたが、次第に受け入れられるようになりました。現代に比べると甘みは薄かったようですが、みずみずしい果実は夏の水分補給に最適で、多くの人々が買い求めました。また、瓜と一緒に売られていた「幕(まくわうり)」も人気の水菓子でした。
秋から冬にかけては「柿」や「蜜柑」が人気でした。柿は渋柿が主流で、干し柿として保存され、甘みを増して食べられていました。農家の庭先に植えられることも多く、庶民の甘味として親しまれていました。蜜柑では、特に和歌山県産の「紀州蜜柑」が人気で、皮が厚く美味しいと評判でした。
砂糖を使ったお菓子も江戸時代には存在していましたが、庶民が食べる駄菓子は主に黒砂糖や水飴を使った安価なものでした。
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引用元:https://youtu.be/HlYGzifSm7U?si=W46ALWDm7bZ6ow2j,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]