藤原道長がこの世を去ったのは寛仁4年のこと、その時、頼通は36歳でした。頼通が父親である道長に逆らった記録はありません。
頼通の結婚生活については、『栄花物語』に興味深い記述があります。頼通が17歳の時、寛弘6年に高姫女王という皇族出身の女性と結婚しました。当時、高姫の父親である具平親王が頼通を婿に迎えたいと考えていたと聞き、道長は「男は妻の家柄でその価値が決まる」と喜びました。
頼通と高姫の間には子供が生まれない状態が続いていましたが、長和4年、若き頼通に三条天皇が二番目の皇女を娶らせようと提案します。
道長は「男が一人の妻だけを持つのは愚かなことだ。今は子供を持つことが最優先だ」と頼通に説得しました。しかし頼通は高姫を愛し、彼女との絆を大切にしました。後に頼通が病に倒れ、その原因が高姫の父具平親王の怨霊であるとされ、道長も強引な要求をやめざるを得ませんでした。
道長がこの世を去った後、頼通は藤原氏の影響力を維持するために奔走しました。頼通は高姫の妹の良子女王の娘を養女として宮中に送り込みましたが、それだけでは道長のように深く宮中に影響力を持つことはできませんでした。約9年後、後一条天皇が病気で倒れ、自らの代に応じて後冷泉親王を次の皇太子とするよう指示しました。
頼通は内大臣に昇進し、摂政にも任じられました。さらに氏の長者の地位も父から引き継ぎました。24歳の頼通が愛する妻を守るために父に立ち向かったのは非常に勇敢なことでした。
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引用元:https://youtu.be/tSaX19uakU8?si=Goipx2xkg5IOD8DL,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]